・翌月にまとめてお支払い可能
・手数料無料(口座振替の場合)
・アプリでご利用金額を確認できて安心
¥2,200 税込
なら 手数料無料の 翌月払いでOK
金管四重奏 メンフィス・ブルース
Memphis Blues
編成はTp.、Hn.、Tbn.またはEup.、Tubaです。
木管四重奏やサックス四重奏でも演奏できます。
”世界最初のブルース”を、お楽しみください。
お求めの際はこちらからお願いします。
アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/
参考音源
https://youtu.be/A69TXxzfSSM
アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html
1909年「ブルースの父」WCハンディ(1873-1958 アラバマ州出身)は、アラバマ州フローレンスの敬虔なクリスチャンの家に生まれました。
生まれた頃から教会音楽に親しんで育った彼だが、幼少の頃の彼の心を捉えたものは、アラバマ州の田舎町に生息する蝙蝠のはばたく音、
ふくろうの鳴き声、サイプレス・クリークという渓谷で汗ばんだ手や顔を洗った時の音だったそうです。
「オルガン教室や教会の音楽よりも、南部の黒人労働者がシャベルで大地をたたき、そのリズムで歌うのを聞いているのが好だった。
彼らのリズムはクラシック音楽よりも複雑で、彼らの歌は人生の全てを歌っていた。」
後年、ハンディ自らが語った言葉です。
南部の黒人達が歌うフィールド・ハラー(労働歌)が、後に「ブルースの父」と呼ばれるハンディの下地を作ったのでしょう。
音楽家としてそれなりの教養と経験をつんだハンディは、1903年、ミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でブルースと出会いました。
ブルースという音楽は、決してハンディが生み出したわけではありません。
それまで、音楽的教養のない、南部の貧しい黒人達が演奏していたブルースを、音楽的教養があり、
比較的経済的に恵まれた黒人、WCハンディが世に送り出したのです。
こうして来たる1909年、ハンディはオリジナルのブルース『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表しました。
そして1912年、この『メンフィス・ブルース』は世界初のブルースの楽譜として出版されました。
この『メンフィス・ブルース』が作品として生み出されるために、ハンディが研究した南部の黒人音楽“ブルース”を、彼はこう語っています。
「南部の黒人達の歌は、3度と7度の音(ミとシ)が微妙に下り、メジャーとマイナーの中間のようなキーを
作り出している(現在のブルーノート・スケール。)また、彼らの歌にはトニック、サブ・ドミナント、
ドミナント・セブンのコード進行が見られた(現在の3コード進行。)そして彼らは、
同じフレーズを2度繰り返して歌い、3度目にその結末のような歌詞を持ってくる(これを整理すると、12小節になる。)」
ブルーノート・スケール、3コード、12小節。
これ以降、全てのブルースの原型となる「12バー(小節)・ブルース」が、こうして完成しました。
WCハンディ作曲の『メンフィス・ブルース』を、スウィング・ジャズの巨匠
『ハーレム・ルネッサンス』のデューク・エリントンも演奏しています。
『メンフィス・ブルース』の楽譜が出版された1912年、ジャズにはまだ正式名称がありませんでした。
Jasshouse Music(ジャスハウス・ミュージック/売春小屋音楽)などと呼ばれていましたが、
Jass(ジャス/性交や女性器を意味する南部の古い俗語)という差別的呼称を避けるために、
Jazz(ジャズ)という正式名称が1920年代に米国シカゴでつけられました。
したがって、1920年代以前には、”ジャズ”という音楽の正式なジャンルはなかったわけです。
ジャズは、ブルースや黒人霊歌などを演奏するための、演奏スタイルの一つだったのです。
したがってジャズの曲名には『~~ブルース』というのが多くあります。
しかし、1920年代以前のニューオリンズやディキシーランドの即興演奏には、ブルースの枠ではくくりきれないものが多くありました。
また、ジャズが確立されてからの発展には、他のどのジャンルの音楽も追随できないものがあります。
こうしてジャズは、音楽のジャンルとしての地位を高め、独立していきました。
W.C. Handyは、彼自身を"ブルースの父"と呼んでいます。
Handyがブルースの形式を発明したわけではないのですが、彼は、曲のタイトルに"Blues"という言葉を使った最初の人の1人です。
(例えば、1912年の"Memphis Blues")
そして、"blue notes"(メジャー・スケールの3番目と7番目の音を半音下げたもの)を作品に使用しています。
Handyは、ブルースという音楽形式を広め、1900年代のアメリカ特有の表現とした点で
初期のブルースの開拓者達と同じ位の功績をしたと言えます。
ソングライターとして、バンド・リーダーとして、出版者として、Handyは、彼自身のある程度出来上がっていた音楽的な基盤のために、
ブルースと一定の距離を置いていたものの、ブルースと同義の存在になりました。
彼はブルースを"原始的な音楽"と呼びました。
その発言は、="騒々しい退屈"というブルースの持つ従来の意味を暗にほのめかしていました。
しかし、Handyは、後年までには、ブルースの王者に返り咲いていました。
Handyのブルースへの貢献の栄誉を称え、Memphisの有力者達は、公園に彼の名をつけました。
そして毎年、ブルースの殿堂が選ばれ、W.C. Handy賞は、ブルースにおいてグラミー賞にも匹敵する価値があります。
Handyは、Alabamaに生まれ、若い頃から音楽を学びました。
彼は、南部を旅芸人やテント・ショーと共にまわるバンドでコルネットを演奏しました。
Handyによると、それは、1892年のことだが、彼は、旅の途中で、デルタ・ブルースを初めて聴きました。
Maharaの旅芸人と演奏した後、彼は、1896年に一座の音楽の総合責任者を継ぎ、
1800年代後半~1900年代初期にかけて、Mississippi Deltaで手軽なクラシック音楽や当時のポピュラーなダンス・ナンバー、流行歌を演奏しました。
1908年には、彼は、Memphis市長選挙でE. H. "Boss" Crumpのためのキャンペーン・ソングを書くように要請されました。
Handyはやむなく書き、彼が書いた曲のオリジナル・タイトルは、"Mr. Crump."です。
Handyは、後にそれを"Memphis Blues"に変えて1912年に出版しました。
その曲はビッグ・ヒットになりました。
細かい研究家は、"Memphis Blues"が本当にブルースかどうかを議論していますが、その是否に関わらず、
"Crazy Blues"を書いたPerry Bradford(この曲は、Mamie Smithのために書かれ、
彼女は、1920年に録音し、最初期のブルースの曲となった)のような、
ブルース作曲家にインスパイアされた曲だという事実に間違いありません。
この曲は、今でも、1920年代の古典的ブルースとして知られています。
Handyは、1914年に"St. Louis Blues"と"Yellow Dog Blues"を、1916年に"Beale Street Blues"を出版しました。
そんな中で、1917年にNew York Cityに移動した彼は、1923年まで彼自身のバンドと共に録音し、
1922年には、Handy Record Companyを設立しますが、そのレーベルは、ろくにレコーディングを発表出来ないまま、失敗に終わりました。
1920年代、30年代と、Handyは多くのオーケストラと共演しました。
1938年には、彼は、自伝"Father of the Blues"を書きました。
1940年代、視力の低下のため、Handyは、表舞台からは姿を消し、その後、1958年に亡くなりました。
アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/
お支払い方法について
¥2,200 税込