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マリンバと木管による六重奏アルベニス :スペイン組曲 第5曲〈アストゥリアス/ "Asturias(Leyenda)"〉楽譜

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マリンバと木管による六重奏アルベニス :スペイン組曲 第1集 Op.47
第5曲〈アストゥリアス/ "Asturias(Leyenda)"〉

編成はマリンバとフルート、オーボエ、クラリネット2本、ファゴットです。
オーボエはクラリネットに変更可能。
ファゴットはバスクラリネットに変更可能。
スペインの風を感じることができる組曲からお好きなチョイスでコンサートピースに、ぜひどうぞ。
お求めの際はこちらからお願いします。

アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/

参考音源
https://youtu.be/LxHdxsrBwzc

アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html

アルベニスは《スペイン組曲》という曲集を2つつくっていますが、一般的に親しまれているのは、この第1集です。
アルベニス初期の作品で、8曲の組曲として知られています。しかし、もともとは1886年に4曲(第1、2、3、7曲)が
作曲されたきりで、残りの4曲(第4、5、6、8曲)は、タイトルしか残されていませんでした。
アルベニスの没後、出版社はこのタイトルのみの4曲に対し、彼の他の楽曲をあてがい出版しました。
躍動感あるリズム、ギターを思わせる音色など、いずれもスペイン色の強い作品です。
ギターへの編曲版としても有名です。

第1曲〈グラナダ/ "Granada(Serenata)"〉
アンダルシアの古都グラナダへの想いがこめられた曲です。アルベニスは22歳の時、グラナダで過ごし、
独特の風情をもったその街を大変愛していました。彼はこの曲について「狂おしいほどにロマンティックで、
絶望的なほどに哀しいセレナード」であると手紙に記しています。ギター風の伴奏、美しい旋律など、魅力的な作品です。

第2曲〈カタルーニャ/ "Cataluna(Coranda)"〉
アルベニスの故郷、スペインのカタルーニャ地方の雰囲気を想起させる作品です。この地方に伝わるハーディ・ガーディ
という楽器の音を模してかかれています。8分の6拍子の舞曲調で、繰り返されるハーディ・ガーディの音が、
しだいに遠ざかっていきます。

第3曲〈セビーリャ/ "Sevilla(Sevillanas)"〉
セビーリャの雰囲気をたたえた作品。A-A’-A-B-Aの形をとっています。舞曲セビリャーナスの速いテンポ、
カスタネットのリズムにのって、祭り(復活祭聖週間)の主題が情熱的にうたわれます。
それとは対照的に、中間部では、哀愁ただよう宗教歌サエータがきかれます。リズムを活かしつつ、
効果的に音をつなげるように演奏したいものです。

第4曲〈カディス/ "Cadiz(Cancion)"〉
《セレナータ・エスパニョーラ》作品181を転用したもの。
ジブラルタルの北西にある港市カディスの雰囲気を想わせる曲です。3部形式。スペイン風舞曲のリズムにのせて、
男性的なセレナータが、のびやかに歌われます。情熱的な中間部を経て、再び冒頭のリズムへ戻ります。
そしてppで静かにしめくくられます。

第5曲〈アストゥリアス/ "Asturias(Leyenda)"〉
組曲《スペインの歌》作品232の第一曲〈前奏曲〉を転用したものです。アストゥリアスは、スペイン北部にあって、
山や森林、谷間や牧草地に恵まれた地方です。ギター的な奏法がピアノで表現されていて、独特の色彩感が表出されています。
A-B-A(-コーダ)の形をとっています。リズム主題が、次第に高まりをみせ、神秘的な雰囲気をもつ中間部へ進みます。
ここで奏される2オクターブのユニゾンは、アルベニスが好んで使用していたものです。
再び第一部が回帰され、コーダへと至ります。

第6曲〈アラゴン/ "Aragon(Fantasia)"〉
《2つのスペイン舞曲》作品164の第一曲〈アラゴン〉を転用したものです。東北スペインのアラゴン地方に知られる、
ホタの舞曲が、華麗で爽快に描かれています。ホタは、速い3拍子のリズムと、カスタネットの伴奏にのせて踊られます。

第7曲〈カスティーリャ/ "Castilla(Seguidillas)"〉
組曲《スペインの歌》作品232の第五曲〈セギディーリャス〉を転用したものです。カスターリャ地方は、
以前スペインの中央部を占めており、王国がありました。セギディーリャスとは、そこで生まれた3拍子の民族舞曲であり、
ビゼーの《カルメン》にも用いられていることで知られています。
リズム旋律が、巧みに組み合わされ、曲を構成しています。カスタネットとギターの伴奏、転調、変化和声など、
アルベニスの巧みさと感性が光る作品です。

第8曲〈キューバ / "Cuba(Capricho)"〉
キューバは、1898年までスペイン領であり、アルベニスは、少年時代、ここを訪れています。
南国風の明るい雰囲気の中にも、一抹の哀愁を感じさせます。
8分の6拍子と、4分の3拍子の間を揺れ動く、舞曲の形でかかれています。



グラナダ(セレナータ)
総演奏時間:4分00秒

カタルーニャ(コランダ)
総演奏時間:4分30秒

セビーリャ(セビリャナス)
総演奏時間:4分30秒

カディス(カンション)
総演奏時間:4分30秒

アストゥリアス(伝説)
総演奏時間:5分00秒

アラゴン(ファンタジア)
総演奏時間:4分30秒

カスティーリャ(セギディーリャ)
総演奏時間:2分30秒

キューバ(カプリッチョ)
総演奏時間:5分30秒

イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル
(Isaac Manuel Francisco Albeniz y Pascual, 1860年5月29日 - 1909年5月18日)は、
スペインの作曲家・ピアニストであり、スペイン民族音楽の影響を受けた作品で知られています。
イサーク・アルベニス(Isaac Manuel Francisco Albeniz y Pascual)は1860年5月29日、スペインの東北部
カタルーニャ地方の小さな町カンプロドンに生まれました。
父親アンヘル・アルベニスは税官吏を職業としており、母親ドローレス・パスクアルとの間に4人の子供(女3・男1)を
もちました。
4人の子供たちは皆音楽の才能に恵まれていましたが、中でもイサーク・アルベニスがピアノ演奏への才能が
突出していたと伝えられています。

父親は息子の才能に気づき、早くから公開演奏の機会を設け、イサークがわずか4歳の時にバルセロナにある劇場で
一人の姉と共に初めての公開演奏を行いました。

6歳の時には母に連れられパリへ赴き、名教授マルモンテルに短期間師事した後、
パリ音楽院の入学試験を受けますが、待機中にボールで遊び、音楽院のガラス(鏡とも言われている)を壊してしまい
「子供すぎる」と入学を断られてしまいました。

その後スペインに戻り、マドリードにある国立音楽演劇学校(現マドリード音楽院)に入学して学びますが、
もともと冒険好きな気質を持っていたイサークは度々寄宿舎から抜け出し、放浪しながらピアノを演奏していたそうです。

イサーク本人の話によると、12歳の時に放浪先のカディスで南米行きの船に忍び込み、
船の中でピアノを弾きながらブエノスアイレス(アルゼンチン)に渡り、南米やキューバ、アメリカへ放浪の旅を
続けたということです。

12歳で密航して外国を演奏旅行して回るというのはあまりにも信憑性がない話ですが、
イサークの才覚と気質からしても、類まれな才能とキャラクターであったことは確かな様で、
1875年(15歳)に大西洋を渡りプエルトリコ及びキューバで演奏会を開き成功した記録(新聞記事)が残っています。

1876年、アルベニスは一時ライプツィヒ音楽院で学びますが、その後ブリュッセル音楽院へと移り、
1879年までピアノ、和声学、ソルフェージュなどを学びます。この時、彼はスペイン政府からの奨学金を得ており、
ルイ・ブラッサンにピアノを、フランソワ=オーギュスト・へファールトに作曲や音楽理論を学び、
ピアノ科を首席で卒業しました。

1880年の夏、20歳のアルベニスは敬愛したフランツ・リストへ会うべく、ブダペストを訪れます。
実際に会えたのか会えなかったのかは定かではありませんが、リストにピアノを聞いてもらい、
スペインや音楽などについて会話をしたことがアルベニスの手記に記されています。

1883年アルベニスが23歳の時、弟子の一人であったロシーナ・ホルダーナと結婚し、バルセロナへ移り住みます。
また、この年にスペイン音楽の先駆者フェリーぺ・ペドレル(スペイン民族主義楽派)と巡り会い大きく影響を受け、
本格的な作曲活動を進めます。

1885?1889年、アルベニスはマドリードへ移り住み、コンサートピアニスト・作曲家・教育者として名声を挙げ、
スペイン王家にも出入りし、貴族社会と関わりを持つようになります。

また、1888?1889年にはフランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリアなど国外へと
演奏旅行へ乗り出し、各地で成功を収めます。
1890?1893年、アルベニスはロンドンへ移り住みます。ロンドンの銀行家マニー=カウツと知り合い、
多額の年金を受け取るのと引き換えに、文芸の才能のあったカウツの台本を元にオペラを作曲する依頼を受け、
「ペピータ・ヒメネス」(1896年初演)といった作品が生まれました。
また、プリンス・オブ・ウェールズ劇場の指揮者も一時期任されています。
しかし、1893年にいったんマドリードへ戻り、翌1894年にパリへ移ります。

パリでは、それまでの演奏旅行で知り合った友人達や、フォーレ、ダンディー、ドビュッシー、ショーソン、デュカス等の
近代フランス音楽の大家達と親交を結び、多くの刺激と影響を受け、アルベニス自身の作風も大きく変化していきました。
1897年、アルベニスはダンディー率いるスコラ・カントルムでピアノ科講師となり、若きセヴラックもアルベニスに学んでいました。
しかしこの頃、アルベニスはブライト病という腎臓の病気を患い、ピアニストとしての活動を控え、
教育活動も退き、順調に見えたパリでの生活も一変します。
1900年からしばらく、アルベニスは祖国スペインへ戻ります。
しかし、病気は悪くなる一方で、音楽活動も思うようにいかず、1902年に再びパリへ、1903年保養のためニース、
そしてピレネーへ近いカンボ・レ・バンへと移りましたが療養の効果は現れず、1909年5月18日、
娘が庭先から切ってきた初咲のバラを見ながら、生涯を閉じたそうです。
バルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。
49年の輝かしくも短い生涯でした。

アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/

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