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サックス四重奏(五重奏)「サウス」
South
Bennie Moten
編成はサックスのソプラノ、アルト、テナー、バリトンに加えてドラムスです。
クラリネット四重奏(五重奏)版、金管四重奏(五重奏)版は発売中です。
カンサスシティ往年の名曲をコンサート・ピースに、ぜひどうぞ。
お求めの際はこちらからお願いします。
アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/
参考音源
https://youtu.be/Mck0C8tVbuk
アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html
「サウス」はタモン・ヘイズとベニー・モーテンによるジャズの名曲です。
この曲は1924年にベニーモーテンのカンザスシティオーケストラによって演奏され、1928年に再び録音され、全国的なヒットとなりました。
この曲はモーテンの最も人気のある作曲でした。もともとはインストルメンタルでしたが、レイ・チャールズは後にその曲の歌詞を書きました。
ウィリアム・エメット・スタッドウェルとマーク・バルディン:ビッグバンドリーダー:スイング時代のオーケストラや
その他の人気のあるアンサンブルが好んで取り上げた曲です。
ベニー モーテン
Bennie Moten
1894.11.13 - 1935.4.2
米国のピアノ奏者,作曲家。
ミズーリ州カンサスシティ生まれ。
1922年カンサスシティで5人編成のバンドを結成し活動を開始、次第に大きな編成となり、ウォルター・ペイジ、ジョージ・E.リー楽団と共に
カンサスシティの3大楽団となりました。
’28年ニューヨークに進出、バンドにウォルター・ペイジを加え最高の陣容で活躍、他にカウント・ベイシー、ジミー・ラッシング等がメンバーを構成、
「ザ・コンプリート・ベニー・モーテン」(RCA)等の作品があります。
彼は1894年にミズーリ州のカンサスシティで生まれました。母親がピアニストで、幼い頃からこの母親にピアノを教わっていました。
1918年から 1922年頃までラグタイムのトリオを率いるなど、生まれ故郷でさまざまなバンドで演奏しました。
1923年にOkehレーベルに吹きこんだのが初録音です。
1920年代から1930年代半ばまでのカンサスシティのジャズ界をリードしました。
1920年代のカンサスシティで人気があったバンドのリーダーを三人あげるとするならば、Bennie MotenとGeorge E. Lee、Walter Pageだと言われています。
そのWalter PageのBlue Devilsの中心メンバーを次々に引き抜き、Count BesieやJimmy Rushing、Hot Lips Page、Walter Pageといった
一流ミュージシャンを擁したのだから、人気が出ない方わけがありません。
1932年にはBen Webster、その後もLester Youngが加わるなど、このバンドは絶頂期を迎えます。
しかし1935年のこと、親友であった医者の手術を受けた際にその手術が失敗し、頚動脈切断による出血多量でBennie Motenは亡くなりました。
扁桃腺の簡単な手術のはずがこのような医療事故になった為、この手術が失敗した原因には様々な噂が流れました。
友人ではなく医者見習いが手術を担当したという説、友人である医者と前日の夜遅くまで飲み歩いていた為、酒気帯びでの手術であったという説があります。
Bennie Motenの死後、彼のバンドの中心メンバーが集まってできたのが、あのCount Besie楽団です。
カンザス・シティのジャズ
William “Count” Basie(1904-1984)
1920年代の終わり頃から、ミズーリのカンザス・シティでジャズが大流行します。ここカンザス・シティだけは禁酒法時代にもかかわらず、
民主党の悪徳政治家トム・ペンダーガストTom Pendergastがいたおかげで州知事も警察も機能せず、賭博場もあり、ナイトクラブもキャバレーもあり
酒も大っぴらに飲めたというのです。
人々が集まって来るわけです。シカゴでは地下のもぐりの酒場で控えめな音しか出せませんでしたが、ここカンザスではエキサイティングな音で
ガンガンやってしまったのです。このとんでもない政治家はシカゴのギャング以上です。
Harry Trumanはペンダーガストに応援されて、後には大統領にまでなりましたが、いろいろなゴシップ話が書かれたものが沢山あります。
ここでは政治の話はするつもりはありませんが、トルーマンとペンダーガストにまつわる本が出ています。
Harry Truman(1884-1975) Tom Pendergast(1872-1945)
しかし、1933年には悪法名高い禁酒法も廃止となり、カンザス・シティの存在意義は徐々に薄れていきましたが、1939年に脱税の罪で収監されるまで、
カンザス・シティは歓楽の街として栄えていました。
ここでのスターは何といってもカウント・ベイシーです。1927年にカンザス・シティにやってきてBennie Moten(1885-1935)楽団に入りました。
1935年にベニー・モーテンが亡くなり、カウント・ベイシー楽団となります。
"Queen of Kansas Clubs"と呼ばれたClub Renoでは、レスター・ヤングがカウント・ベイシー楽団をバックに演奏するところを、
若かりしチャーリー・パーカーが聴き入っていたという光景が見られたそうです。
また、巨大なダンスホールもありました。ダンサーが2000人とか3000人とかいうのですから想像がつきません。
The Pla-Mor Ballroomではジャンゴ・ラインハルトもカウント・ベイシーも出ていましたし、ホーギー・カーマイケルもここのハウスバンドのメンバーだったのです。
1936年暮にシカゴに移動。既にジャズの中心はニューヨーク、1937年にはベイシーもニューヨークに進出します。
アトリエ・アニマート
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