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金管五重奏曲 第1番「シンフォニー」第1楽章:エワルド
SYMPHONY for Brass Quintet
Victor Ewald
編成はTp.2本.、Hn.、Tbn. or Eup.、Tuba.です。
ロシア音楽の名曲をコンテストやコンサート・ピースなどに、ぜひどうぞ。
第2楽章、第3楽章は発売中です。
お求めの際はこちらからお願いします。
アトリエ・アニマート・ショップ
https://animato.official.ec/
参考音源
https://youtu.be/E0__Xu-JLfU
アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html
この曲はロマン派のオーソドックスな形式、和声法が用いられ、伝統的手法とロシアの民族的要素がうまく結合されていて、
歴史の浅い金管室内楽曲の重要なレパートリーとなっています。
金管5重奏曲の代表作として金管奏者なら誰でも1度は出会う名曲です。エワルドのこのシリーズは、1番から3番までありますが、
アンサンブル・コンテストでは、圧倒的にこの作品が演奏されています。さらに各楽章ごとに選曲されることも多く、
その中でも第3楽章が最も人気です。
この編曲版はライプツィヒ版(原典版)をベースとして、現代の演奏スタイルにマッチした最小限の改訂を施しています。
ヴィクト(ー)ル・エワルド(またはエヴァルド、エヴァルト)(Victor Ewald, 1860年 - 1935年 サンクトペテルブルク)は、
北欧系もしくはバルト系のロシアの作曲家です。主に金管楽器の合奏曲が有名です。
子供の頃からチェロやホルン、コルネットを学んでいて、モスクワ音楽院でさらに専門的に演奏や作曲・音楽理論を学びましたが、
ペテルブルク大学で建築・工学を学び、土木技師として生計を立てました。豪商ベリャーエフのサークルの一員であり、
その出版社から金管合奏のための数々の室内楽が出版されました。ロシア民謡集も出版しています。
作曲家としては、ロシア情緒と西欧的な均整美の釣り合いのとれた作風で、チャイコフスキーやボロディンの影響が
指摘されています。
ロシア音楽の革命家~ヴィクトル・エワルド
作曲当時に使われた楽器=ピリオド楽器を主体とするブラス・アンサンブル“プリンス・リージェント・バンド”による
“スターリン体制の時代に抑圧された作曲家の作品”です。
1930年代のソビエトでは、スターリンの名の下に大粛清が行われ、数多くの外国人たちも追放されてしまいました。
エワルドはモスクワ音楽院で作曲を学ぶと同時に、ペテルブルク大学で建築を学んだ才人です。
ベリャーエフのサークルに属し、作品も多く残るなどベーメとは対照的な生涯を送った人です。
サンクト・ペテルブルグにつどった音楽家たち
バルト海に臨む風光明媚なロシアの古都サンクトペテルブルグは18世紀はじめ、皇帝ピュートル1世の時代にこの名を与えられて以来、
学術・文化の中心地としてこの街は永く栄えてきました。トルストイをはじめ、文豪たちの数多くのロマンの舞台として描かれてきた街です。
歴史のさまざまな風雪に耐え、今世紀初頭の革命をきっかけに「レニングラード」と改名されましたが、1991年のソ連解体後、
かつての「サンクトペテルブルグ」という名称を取り戻しました。
音楽の歴史に目を向ければ、チャイコフスキーをはじめとするロシアの楽匠たちの名曲やオペラの多くは、
このサンクト・ペテルブルグで初演され、ここから世界の楽壇に広まっていきました。
このようなロシア音楽の発展の流れを思い起こすとき、必ず引き合いに出される人物がいます。
ミトロファン・ペテロヴィッチ・ベリャーエフ(1836~1904)は、ペテルブルグではもとより、ロシアでも有数の資産家でした。
父親から受け継いだ広大な森林を元手に、材木商としてゆるぎない地位にあった彼は、音楽の庇護者たることを最大の生きがいとしていました。
1880年頃から楽譜出版を手がけたり、コンサート協会を設立するなど、自国の作曲家たちを世に出すことにさまざまな角度から力を尽くすようになりました。
ちなみにベリャーエフが興した出版社は後にドイツのフランクフルトに移され、現在も営業を続けています。
そのような人物でしたから、ベリャーエフの広い邸宅にはプロ・アマを問わず多くの音楽家たちがつどい、
やがて金曜日の夜ごとに、室内楽の演奏会が開かれるようになりました。
演奏の主体は弦楽四重奏でしたが、ときにはピアノをまじえた三重奏、五重奏、さらにそれ以上の編成でも行われました。
「曲作り」が生計のためではなかった当時のロシアのほとんどの「作曲家」たちにとって、ベリャーエフ邸での《金曜日の夜のつどい》は、
自分たちの新作の室内楽曲を気軽に発表できる場でもありました。海軍の軍人リムスキー・コルサコフ、化学者ボロディン、
近衛仕官ムソルグスキーら、世紀の楽匠たちが本職のかたわらに書き上げた作品を持ち寄り、ときには自ら演奏に加わり、
音楽談義に花を咲かせたのです。
その《金曜日の夜のつどい》はいつも《酒宴》に形を変え、深夜の3時頃まで続いたといわれています。
ベリャーエフ自身もヴィオラを担当していた《金曜日の夜》の弦楽四重奏団の中に、ひとりの青年技師がいて、チェロを弾いていました。
その青年技師の名前こそヴィクトル・ヴラディミロヴィッチ・エヴァルドでした。
エヴァルドと音楽の出会い
ペテルブルグ生まれのエヴァルド(1860~1935)は、12歳の頃から当市の音楽院でコルネットを習い始めました。
同じ頃、ピアノやチェロ、ホルンなども手がけたと伝えられています。
ロシア帝国のこの首都には、フランスのコルネットの名手ジャン・バティスト・アルバン(1825~1889)が毎年のように演奏に訪れたし、
ドイツのバロック・トランペット奏者ユリウス・コズレック(1825~1905)も、バッハのプログラムなどによって優れた技を披露しました。
彼らのコンサートは、もともと音楽好きな少年エヴァルドの金管楽器に対する情熱を、高めていく糧となりました。
ただ、いつの頃からかエヴァルドの金管楽器熱は《ホルン》に集中するようになりました。評伝にみられるこの《ホルン》が、
《フレンチホルン》をさすのか、それともかつての吹奏楽で中低音域を占めていた一連の楽器族(アルトホルン、テナーホルンなど)のことなのかは
不明です。
後年はオーケストラでトロンボーンを吹いていましたし、自作の4曲の金管五重奏曲の初演の際にはチューバを担当したとも伝えられているため、
ひと通りの金管楽器はそれなりにこなせたと考えられています。
しかし、これらは「音楽愛好家」エヴァルドのほんの一面に過ぎません。先述のペテルブルグきっての音楽サロンというべきベリャーエフ邸で、
弦楽四重奏団の一員として演奏した彼のチェロの腕前は相当なものだったはずです。また、ロシア各地の民謡を採集する、
在野の学究らしい一面もありました。
もちろんエヴァルドは本職の技師としても有能で、仲間の信望も厚かったことでしょう。
教師として勤めていた工業学校で、晩年は校長に任命されたのでした。
4曲の金管五重奏曲について
エヴァルドの4曲の金管五重奏曲からは、帝政ロシア末期のペテルブルグの、落ち着いた楽壇の雰囲気が伝わってくるようです。
『金管五重奏曲第1番』は彼の作品のうちで、最もよく知られた作品です。作曲年は不明ですが1912年にベリャーエフによって初版出版されました。
編成は当初、2本のコルネット、アルトホルン(変ホ)、テノールホルン(変ロ)、およびチューバと指定されていました。
この曲を『金管合奏のための交響曲(Symphony for Brass Choir)』という表題にしている版もあります。
その版は低音部をバリトンとチューバとにわけて全体を6声部とし、「合奏」としての効果をねらった後世の編曲です。
「六重奏」で演奏されることも少なくありません。
『金管五重奏曲第2番』と『第3番』の2曲は、永い間その存在が知られていませんでした。
ロシアに眠っていたこれらの楽譜を《西側》に持ち出したのは、かつてのレニングラードを研鑚のために訪れていたノルウェーの
ホルン奏者F.R.ヴェクレでした。
その楽譜が、後に親交を得た米国の「エンパイア・ブラス」のメンバーの目に止まり、この卓抜のアンサンブルによって1970年代に
初めて録音されました。作曲年はいずれも不明です。
『金管五重奏曲第4番』は、エヴァルドの出世作ともいえる弦楽四重奏曲からの編曲です。ペテルブルグで1893年に室内楽の作曲コンクールが開かれました。
チャイコフスキーやリムスキー・コルサコフらが審査員をつとめたそのコンクールで、入賞したのがこの曲の原曲です。
金管アンサンブルに書き直したのが誰かは不明とされていますが、初演にエヴァルドがチューバ奏者としてかかわっていたという
先述の仮説から、彼自身が編曲したと考えられています。
かつては金管アンサンブルのオリジナル作品といえば、スタイルはともかく、儀式や祭典のためのもの、ないしはファンファーレ風の
小品が主流でした。
しかし、弦楽重奏の趣をひそめて書かれたエヴァルドの一連の金管五重奏曲は、その後のこのジャンルの音楽の方向性の広がりを
予見させるる作品群と言えるでしょう。
アトリエ・アニマート
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