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木管四重奏<モテット>より「ロクス・イステ」楽譜

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木管四重奏<モテット>より「ロクス・イステ」
ブルックナー作曲
Locus iste of Motteten by Anton Bruckner (1824-1896)

編成はFl.、Ob.、Cl.、Bsn.です。
サックス四重奏、クラリネット四重奏版、金管四重奏版は発売中です。
穏やかな流れの中に立体的な奥行きと、響きの清潔感を感じる音楽を、ぜひお楽しみください。
お求めの際はこちらからお願いします。

アトリエ・アニマート・ショップ
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参考音源
https://youtu.be/fskpeK4w9zQ

Youtubeチャンネル
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
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Locus iste(この場所は神によって造られた)
作曲:Anton Bruckner(アントン・ブルックナー)(1824~1896)
この曲は1869年にオーストリアの作曲家、ブルックナーによって作曲された聖堂献堂式のための昇階唱です。

歌詞:
Locus iste a Deo factus est inaestimabile sacramentum irreprehensibilis est.

邦訳:
この場所は神によって造られた。それは何とはかり知れぬ秘跡 であることか。そこには何の欠点もない。

Anton Bruckner
ブルックナー
編成は四部のコーラス(SATB)です。
最近はシンフォニーでよく知られるようになったブルックナーですが、やはり真髄はアカペラの教会音楽にあります。
モテットのなかでは、Ave Maria、Os justi、Chiristus factus est、Virga Jesse、Vexilla regisなどと並んでよく演奏される曲のひとつです。

Bruckner がオーストリア郊外、リンツの教会 (Votifkapelle) の新しい聖堂の献堂式の為に作曲しました。
簡素で慎ましい曲ですが、ハーモニーの豊かな響き合いの中に胸を打つ瞬間があります。特に神の奇跡は
「非の打ちどころ ( 間違いが ) ない」“irreprehensibilis“という言葉に付けられた、半音階的ハーモニーの推移は見事です。
無意識の内に潜んでいた形の無いものが次第に浮かび上がり、やがて調和したハーモニーに到達した時に、その言葉 (irreprehensibilis) が
輪郭を表します。全体を通じて穏やかな流れの中に立体的な奥行きと、響きの清潔感を感じることができます。

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガニストです。
交響曲と宗教音楽の大家として知られています。

リンツ近くのアンスフェルデンに学校教師の長男として生まれ、村の教会のオルガン奏者を兼ねる父のもとで早くから音楽に親しみました。
13歳で父を失ったのち近くのザンクト・フロリアン修道院の寄宿舎に入り、少年聖歌隊員としてオルガンやピアノ、バイオリンを学びました。
師範学校を経て1841年に助教師となりましたが作曲にも手を染め、ザンクト・フロリアン修道院のオルガン奏者、1856年にはリンツ大聖堂の
オルガン奏者に就任しました。以後作曲の勉強に本格的にとりくみ,R.ワーグナーの音楽に傾倒しました。
1864年?1868年、《ミサ曲第1番ニ短調》にはじまる〈三大ミサ曲〉を完成しました。1868年ウィーン音楽院教授に就任し、
1873年からはワーグナーと親交を深めました。また1875年にはウィーン大学講師となり、学生だったマーラーと交流しました。
《交響曲第4番ロマンティック》(1881年初演)以来ようやく高まり始めた作曲家としての名声は60歳の年、
1884年のニキシュによる《交響曲第7番》初演の大成功で頂点を迎え、生涯初の栄光をブルックナーにもたらしました。
1891年ウィーン大学名誉博士の称号を得ました。《交響曲第9番》を未完のまま72歳で永眠。その音楽の基盤には敬虔(けいけん)なカトリック信仰が
あり、教会オルガン奏者として精通した多声音楽の伝統とベートーベン以来のドイツ、オーストリア音楽の諸様式とが融合し、
独自の書法を形づくっています。第0番と習作1曲を含む11曲の交響曲(1863年―1896年)のほか、《テ・デウム》(1884年)、
《詩篇第150番》(1892年)など多くの教会音楽、《弦楽五重奏曲》(1879年)などがあります。

ブルックナーには独自の技法や表現があり、それらはブルックナーの名前を付けて呼ばれています。
有名なものでは「ブルックナー開始」があげられますが、これは第1楽章の始まりを弦楽器のトレモロという音を小刻みに演奏する技法で始めるものです。
他には「ブルックナー休止」「ブルックナー・ゼクエンツ」「ブルックナー・ユニゾン」「ブルックナー・リズム」などがあります。

●ブルックナー開始
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られます。ベートーヴェンの『交響曲第9番』に影響を受けています。
●ブルックナー休止
楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法です。
●ブルックナー・ユニゾン
オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げます。
●ブルックナー・リズム
(2+3) によるリズム。第4、6番で特徴的である。(3+2) になることもあります。初期の稿では5連符として書かれていたものが、改訂稿では
ブルックナー・リズムに替えられている例も見られます。
●ブルックナー・ゼクエンツ
ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られます。
●コーダと終止
コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げます。
●和声
ブルックナーの和声法で、響きが濁るので従来多くの作曲家が避けた技法。例えば根音Gとした場合、根音Gに対して、
属9の和音以上に現れる9の音のA♭が半音違いで鳴ること、属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、13の和音においてDとE♭が半音違いで鳴ること。
もう一つは対位法の場面で現れ、対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。従って和声学上の対斜とは意味が異なりますが、バルトークの
ブルーノート風の半音のぶつかりも「対斜」とされているので、ここでは「ブルックナー対斜」と読んでも差し支えありません。
またワーグナーのトリスタン和音がそのまま使われていることがあります。和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多く見られます。
和音の機能をはっきりさせるために同楽器の密集配置がほとんどで、これが後期ロマン派の香りを引き立たせる大きな要因となっています。

彼は幼い頃から音楽の才能を発揮していたブルックナーは、10歳くらいの年齢になった際に、オルガン奏者だった父親の代わりに
オルガンの演奏を教会で行うことがあったそうです。そして11歳の年には、名付け親でありオルガニストだった人物の元で音楽の教育を
受けることとなりますが、その後父親が亡くなると、すぐに修道院の聖歌隊に入ることになりました。
その後16歳で小学校の補助教員免許を取ると、翌年には補助教員として働き始めますが、そこでは授業以外の雑用や畑仕事なども行う必要がありました。
しばらくして別の場所へと転勤になりますが、移った先はブルックナーにとって良い環境だったらしく、初期の合唱曲が生み出されることとなります。

1855年には、リンツ大聖堂のオルガニストの試験でその席を勝ち取ることとなり、大きな収入を得ていくようになったようです。
しかし同年、ブルックナーは再び作曲の勉強をしたいと考え、6年間に渡ってジーモン・ゼヒターに師事しました。
1868年には、師事していたゼヒターの後にウィーン国立音楽院教授となると、しばらくの間はリンツ大聖堂の仕事と掛け持ちしている状態だったそうです。
作曲を行いながらオルガニストの仕事も継続していたブルックナーは、この時期オルガニストとしてとても高く評価されていました。
ちなみにこのころに作曲されたのが、初期の交響曲である「第1番」「第2番」、そして「第0番」と呼ばれる作品です。

1873年、バイロイトでワーグナーとの交流の機会を得たブルックナーは、自身の「交響曲第3番」を献呈しました。このことは、ワーグナーには
良い印象を与えましたが、当時の反ワーグナー派からは批判を受けることとなったようです。
そして1876年、バイロイト音楽祭を訪れたブルックナーは、作曲してきた交響曲を大幅に改訂することにしました。この時に大幅改訂されたのが、
「交響曲第1番」から「第5番」だったようです。

その後1877年に行われた「第3番」の初演は失敗に終わりますが、次の「第4番」が好評となったためブルックナーは交響曲の作曲家としても
知られるようになります。そして、宗教曲の中の代表作である「テ・デウム」や、「交響曲第7番」などが作曲され、さらに有名になっていきました。
1884年ころから「交響曲第8番」に取り掛かると1887年には初稿が完成しましたが、大幅な改訂を必要としたため現在よく知られている
第2稿が完成したのは1890年でした。
この作品は、ブルックナーの作品の中でも代表作と言える交響曲で、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に献呈されています。
また、この「第8番」の改訂の際には、他のいくつかの交響曲も改訂が行われました。

数階建ての建物に住んでいたブルックナーでしたが、体を悪くすると、階段の往復が辛くなっていきました。
それを知ったフランツ・ヨーゼフ1世は、ブルックナーを宮殿敷地内の建物に住まわせることにしたようです。

また、ブルックナーは亡くなる当日まで「交響曲第9番」の作曲を行っていましたが、完成には至らないままとなってしまいました。
当時の音楽界は、ブルックナーが「交響曲第3番」を献呈したワーグナー派と、ドイツ三大Bの内の1人であるブラームス派に分かれていました。
そのためワーグナー派とされていたブルックナーと、ブラームスの仲は良いものではなかったようです。
しかし、「交響曲第8番」に関してはブラームスも評価をしていました。そして、ブルックナーの葬儀の際は遠くから見ていたり、
泣いていたりといった様子が確認されたと言われています。

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