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フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285木管伴奏
アレグロ ニ長調 4/4 ソナタ形式
Allegro from Flute Quartet in D major K.285
Wolfgang Amadeus Mozart
編成はFl.、Ob.、Cl.、Bsn.です。
サックス版、クラリネット版は発売中です。
モーツァルトの明快な作品を、ぜひお楽しみください。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
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第1楽章 アレグロ ニ長調 4/4拍子 ソナタ形式 フルートが輝かしく縦横無尽に活躍します。
第1楽章については、以下のようなことが言えます。
・(明快に聞こえることに比べると)主題構成が非常に凝っていること
・目立たぬ中に「1小節単位の短いカノン」や「半音進行」の技術を織り込んでいること
・フルートの主旋律に対するエコー(とくにヴァイオリンとヴィオラ)が登場のたび変形されていること
・聞き飽きてしまうような「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような、教科書的なソナタ形式ではないこと
1777年9月23日、モーツァルトは母と二人で就職活動のためザルツブルクを出発。 10月30日、マンハイムに到着し、そこに4ヶ月半滞在しました。
選帝侯カール・テオドールは文化活動を奨励し、ドイツにおける文化全般の中心地を作り上げていました。
モーツァルトはマンハイム楽派の音楽に接し、歌手のアントン・ラーフ(63歳)、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリング(54歳)、
オーボエ奏者フリードリヒ・ラム(33歳)などと親しくなり、さらにまたアロイジア・ウェーバー(17歳)に恋するようになりました。
1777年12月10日、モーツァルトは滞在先のマンハイムから故郷ザルツブルクに残る夫レオポルトに手紙を送っています。
彼は当地で知り合ったフルート奏者ヴェンドリングの提案に飛びついていました。
例のインドの人(これは自分の財産で暮らしているオランダ人で、すべての学問を愛好し、ぼくの大の友人であり、崇拝者である人ですが)、
この人はとても貴重な人物です。 あなたがこの人のために、フルートのための小さな、やさしい、短い協奏曲を3曲と、四重奏を2、3曲作曲して下さったら、
200フローリン差し上げると言います。 カンナビヒも、気前のいいお弟子を少なくとも二人はお世話します。
あなたはここでピアノとヴァイオリンの二重奏をいくつか作曲し、予約を取って印刷させる。 食事は昼も夜も私のうちでお取りになる。
あなたご自身の宿は財政顧問官のところにする。 すべてあなたは無料ですみます。 お母さんについては、あなたがこれらの事をすっかりお家の方へ書いてやるまで、
2ケ月ぐらいの予定で安いお宿をわれわれが見つけてあげよう。 そのあと、お母さんがお家へ帰り、われわれはパリへ行く。
[手紙(上)] pp.102-103
そのとき57歳の母マリア・アンナは心細い気持ちで、凍えるような寒さに震えていました。
私があの子自身を私から離したくはないのはおわかりいただけるでしょうし、私もひとりぼっちで家に戻る旅をしなければいけないのですが、
こんなに遠い道は私も嫌いなのです。 でも、どうしたらよいのでしょう。 パリまでのとても長い道のりを旅するなんて、
私の年では辛いことですし、それにお金もかかりすぎます。
[書簡全集 III] p.344
と寂しい心境を伝えています。 しかしレオポルトには息子の成功が優先課題であり、そのためには自分も、妻も、
そして娘ナンネルも犠牲を払うのは仕方ないと考えていました。 息子が成功した暁には家族みんなが息子の世話になれるからです。
やがて息子はその期待に重荷を感じるようになり、反発して離れてゆくことになるのですが、もちろんそんな結末になるとはこのときの
父レオポルトにはまったく思いも寄らぬことでした。 彼は妻に寒さ対策を指示し、切手代の節約法を指南するのでした。
一方、21歳の息子に対しては、旅の目的を忘れてぐずぐずしていることを一つ一つ取り上げて説明し、他人の提案に耳を傾けるよりも
自分からの手紙をよく読んで、何をなすべきか考えるよう厳しく伝えています。
ドゥジャン(Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean, 1731 - 97)はボンに生まれ、東インド会社に長く勤めました。
また医師でもありました。 裕福でヨーロッパ各地を気ままに旅行し、ちょうどこの頃マンハイムに滞在していました。
音楽愛好家で、フルートが上手でした。 彼の依頼で、モーツァルトは2つのフルート協奏曲(K.313, K.314)と、
3つのフルート四重奏曲(K.285, K.285a, K.285b)を書くことになります。
その5曲のうち、フルート四重奏曲ニ長調 K.285 は最初の作品です。 これら3つのフルート四重奏曲について、アインシュタインはモーツァルトが
「全く気乗りがせず、高度の飛翔をしなければならぬとは感じていなかった」と言っています。
ただし最初のニ長調 K.285 だけは完全な価値を持っているとも言っています。
それは長さの上からも完全である。すなわち他の2曲が2楽章で満足しているのに、それは3楽章を持っている。
またもちろん、それは様式と内容の点からも完全な価値を持っている。 この曲はいくぶんコンチェルタントで、フルートが際立っているが、
必ずしもヴァイオリンに、ヴィオラにすらも、発言を禁じているわけではない。
またそれは、きわめて甘美に憂鬱なロ短調のアダージョを持っているが、これはおそらく、グルックの『オルフェオ』における楽園の場面への
前奏曲を除けば、かつてフルートのために書かれた最も美しい伴奏つき独奏曲であろう。
そしてロンド自身もきわめて優美な晴れやかさを持った作品で、旋律的な感覚と響きの魅力に満ちている。
[アインシュタイン] pp.249-250
この曲はフランス風の優美さとモーツァルト一流の憂愁を帯び、瑞々しい感性に溢れていて、アンリ・ゲオンが第1楽章を
「走る悲しさ tristesse allante」と評したことも有名です。 なお、第2、3楽章は休みなく演奏されます。
1777年12月18日の手紙では「本物の博愛家であるインド人ことオランダ人のための四重奏曲を1曲もうじき仕上げます」とあり、
そして自筆譜には「マンハイム、1777年12月25日」と書かれていることで、この曲の成立ははっきりしています。
しかし、この曲を含む5曲に対してドゥジャンが支払ったのは「約束の半分以下の96フローリンだった」(1778年2月14日)とモーツァルトは父に伝えています。
レオポルトには既にお見通しだったようで、「もしヴェンドリングさんがお前をからかい、
おまけにドゥジャンさんが約束を守らなかったらどうするのだ」(1778年2月12日)と叱りつけ、早くパリへ旅立つことを命じていました。
モーツァルトはその地で仕事にありつけることを願っていましたが、夢がかなわず翌年3月、母と遠くパリへと旅立つことになります。
希望に燃えていた青年モーツァルトでしたが、よく知られているように、就職に失敗し、失恋し、母を失い、
負け犬となって否応なしに父親のもとに戻る(1779年1月)ことになります。
フルート協奏曲を3曲完成できず、約束の 200フローリンをもらえなかったのは、自分が今いるところは作曲できる環境ではないことと、
フルートという「我慢できない楽器」のための作曲には気が乗らないからだとモーツァルトは父に説明しています。
ただしモーツァルトの主張を100パーセント信じることができるかどうかは疑問です。
もしかしたらドゥジャンの注文は最初からそれほど多くなく、96フローリンに見合う程度だったかもしれません。
この頃のモーツァルトは自分が当地でもてはやされていることを誇張して父に伝えようとし、また、様々なことで父から叱責されるのを回避するために、
その矛先を他人に向けさせて、自分は父から同情を買おうとしていたフシが見られるからです。
そして息子の性格をよく知るレオポルトは半信半疑で息子からの報告を受け取っていたのです。
したがってモーツァルトが書いた「フルートという我慢できない楽器」という表現は話半分で聞くべきでしょう。
でなければ、このフルート四重奏曲 K.285 ような古今東西の名曲が生まれるはずがありません。
レオポルトは息子から「(あなたも)御存知の通り、(ぼくには)がまんできない楽器」とまるで共犯者のように仕立て上げられたことにはいっさい答えず、
次のように問い詰めています。
1778年2月23日
それじゃおまえは200フローリンの代わりに92フローリンしかもらわなかったのかね? で、なぜなのだ?
おまえが彼に協奏曲を2曲と四重奏曲を3曲しか書き上げなかったからです。 彼がおまえに半額しか金を払ってくれないとすると、
おまえは何曲彼のために書くはずだったのです? なぜおまえは、彼のために小さなやさしい小協奏曲を3曲と、
四重奏曲を一対だけ作らなくちゃいかんと、この私に嘘を書いているのだ。 なぜおまえは私の言うことをきかなかったのです?
[書簡全集 III] p.545
父にすべてを見透かされていることを悟った21歳のモーツァルトはぐうの音も出ませんでした。
1778年2月28日
これまでの手紙で、例の件がどうなっているのか、どういう考えだったのか、すっかりおわかりになったと思います。
とだけ書くのがやっとでした。
ぼくの本意は、早くぼくらが一緒になって、仕合わせになれるよう努力することにあったし、現在もそうだし、これからも常にそうでしょう。
(中略)
ぼくには信頼のおける3人の友人がいます。 しかもそれらは力強い、けっして克服されることのない友人たちです。
つまり、神と、あなたの頭脳と、ぼくの頭脳です。
さまざまな事情があったにせよ、それにもかかわらず洗練された名曲が生まれたことで、注文主に(たとえその価値が到底理解できなかったとしても)
感謝したいほどです。 それはドゥジャンやヴェンドリングの腕前が良かったせいか、それともアロイジアへの恋心からかもしれません。
モーツァルト母子は3月14日、パリに向けて旅立ちます。 そして比類ない傑作「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」(K.299)が生まれることになります。
モーツァルトがフルートという楽器を嫌っていたという通説は(父レオポルトが無視したように)まともに受け取らず、
モーツァルト一流の冗談として受け流すべきでしょう。
余談ですが、ドゥジャンについて、モーツァルトは De Jean あるいは Dechamps と書いていて、その人物はオランダ人で音楽愛好家の
デジョン Willem van Dejon であると考えられていたこともあります。
しかし現在は上記の Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean であるとされています。
さらに Dejean はのちにウィーンへ移住し、そこでもまたモーツァルトとの交流があったといいます。
アトリエ・アニマート
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